かがやきのとき

テレビ局から取材を受ける生徒さん

1 障害のある生徒さんとの出会い

 私が、特殊教育と係わったのは、学生時代に「養護学校教諭」の免許をとろうとした時からでした。今まで一度も自ら発表した事がありませんでしたが、(聞かれたこともありませんでしたが)私の人生訓は、
 「弱い者の味方」です。子供のころから弱い者いじめを見たりすると、負けるとは分かっていても飛びかかって行きました。中学1年の時、飛びかかった相手が悪く、バットでなぐら気を失い学校の保健室にかつぎ込まれたこともありました。体力もなく、喧嘩も弱いにも係わらず、無謀にも上級生に挑戦して殴られたりもしましたが、いっこうにひるんだ様子を見せないので、気味悪がられたりしていました。
 さて、そんな私の夢というか理想に、障害のある方の傍にいたいと思っていました。学生時代に、特殊学校の教員になるためには、「養護学校教諭」の資格が必要な事を知り、とにかく免許を取ろうと思い関係単位を集めました。1ヶ月ほど施設での教育実習があり、たいして勉強したわけでもありませんがともかく資格だけは取って卒業しました。しかし、私の大学を卒業した昭和42年当時は、盲学校、聾学校ほか特殊学校は、数も少なく普通学校への就職となってしまいました。

 障害のある生徒さんを初めて担当したのは、バンコク日本人学校でした。私のクラスに知的障害の生徒さんが1名いたのですが、知的障害というよりも世界を転々として勤務した保護者と一緒に生活したため、あまりにも環境の変化が大きく、対応できない状態になったのではないかと思います。私は、私が学んだ特殊教育の知識を出し切って彼の教育に取り組んだつもりでしたが、大きな成果を上げる事ができませんでした。幸い私が日本に帰国し勤務した学校に特殊学級があることがわかり、「特殊学級希望」を出しておきました。帰国すると私の希望の通り特殊学級の担任を受け持つ事になりました。

 当時の特殊学級の学校の中での位置は、それほど重視されていないように感じました。日本人学校から帰ったばかりの私が、「特殊学級」を持たせたことが教育委員会に知れ、校長はだいぶしかられたようでした。そんなわけでというか、私の力不足が原因か、1年で普通学級に変えられてしまいました。私は、特殊学級が閉鎖的にならないよう、出来るだけ多くの生徒さんが集まるよう努力しました。皆さんは、特殊学級を訪問されたことがありますか。教室の特色は、作業学習のための工具や遊具がいっぱいあることです。まだ、その頃は、先生方が、
 「悪いことをしたら特殊学級に入れるぞ!」と生徒さんをおどかしていた位ですから、普通学級の生徒さんの特殊学級のイメージは、相当悪いものだったのでしょう。その特殊学級に多くの生徒さんを呼び込もうとしても誰も来てくれないのです。私は、クラブ活動の募集の時、部屋の特色である作業学習の工具がいっぱいある事を最大に生かし、また、私の少ない特技であり5年ほどの指導の経験である「発明工夫クラブ」を提案しました。すると、全校から20人ほどの生徒さんが応募され、私の特殊学級の教室に来てくれるようになりました。クラブの時間だけでなく、放課後はいつでも来て工具を使えるようにしました。発明工夫クラブの部員だけでなく、他の生徒さんも受け入れるようにしました。
 幸いこの作戦は当たり、発明工夫の相談や工作のために少しずつ訪れる生徒さんが多くなりました。私のクラス、つまり知的障害の生徒さんも工作に興味を持つようになり、みんなでいろいろな物を製作しました。私の学級の生徒さんは、日常的に糸鋸や工具を使っているのですから、当然技術は普通学級の生徒さんよりも上です。初めは、後ろから見ていた私の学級の生徒さんも、鋸の使い方を縦ぎり横切りの区別もなく不器用に使っている普通学級の生徒さんに見かねて手伝うになりました。鋸やかんな、糸鋸盤の使い方などを普通学級の生徒さんに手伝ったり教えているうちに私の学級の生徒さんは随分自信がついたようでした。私も嬉しくなりました。幸い「檜山地方発明工夫展」でも私の学級の生徒さんも入賞することが出来ました。

 しかし、前述のように私に対する他の期待のために特殊学級の担任は、僅か1年で終わり、普通学級に配置されました。勿論私はこの配置転換には不服で、この学校にいたその後の6年間は、毎年「第一希望 特学」と書いて校長に希望を出しましたが、ついに認められませんでした。


2 特殊学校は遠かった

 障害の重いお子さんは、学校教育法で、「就学猶予」あるいは「就学免除」という扱いを受けていました。ですから一度も学校に行くことなく教育を受ける機会もなかったのです。しかし、昭和54年学校教育法の改正で、どんななに重い障害があってもどこかの盲学校、聾学校、養護学校に籍をおくことになりました。そして学校に通うことが困難なお子さんには、「訪問教育」といって籍を置いている学校から教師の方が家庭に出向いていくとになりました。そのため北海道にも多くの養護学校が開校しました。このため、多数の教員が採用されることになりました。この情報を知った私は、この機会に本格的に障害のある生徒さんの学校に移りたいと考えました。同僚や校長に相談してみましたが、
 「やめた方がいいよ。特殊は特殊な人が集まっているんだから。」そう言って私の養護学校勤務にはだれも賛成してくれません。いくら個人が異動の希望を出しても校長の同意がなければ事実上異動は不可能です。結局私の養護学校異動が実現できたのは、昭和57年になっていました。

 北海道教育委員会も私の特性をよく理解していたのでしょう。新しい学校は、「北海道八雲養護学校」で、筋ジストロフィー症の生徒さんの通う「病弱養護学校」でした。昭和57年3月29日、私は内示を受けて初めて八雲養護学校を訪問しました。私がこれまで見聞きしていた生徒さんとは全く想像を絶する重い病気でした。病気だけではなく、病気のために筋力が衰え、歩くことはもちろん鉛筆1本もてないではありませんか。高学年の生徒さんの中には電動車椅子を使っている人もいました。胸が詰まる思いで帰宅しました。


3 病気に負けない、障害に負けない

 北海道八雲養護学校の生徒さんの主な障害は、筋ジストロフィーや脳性まひ、そして重度の心身障害です。筋ジストロフィーは、進行性の病気で、未だに治療法が確立していません。加齢とと共に全身のあらゆる筋肉が衰えていきます。幼児の頃にはほとんど症状が現れないのですが、小学校2年〜3年生頃に転びやすいなど運動障害が現れます。筋肉の検査をして、筋ジストロフィー症が発見されるのです。小学校高学年になると歩行が困難になる場合が多く、車椅子を使うようになります。そして、自力で車椅子をこぐ力もなくなり、電動車椅子を使わなければなくなります。治療は対症療法が中心です。少しでも筋肉の力を維持するため訓練も続けられています。長期の療養を余儀なくされています。私は、教諭時代に11年間、校長で戻って4年間、北海道八雲養護学校に勤務しました。特殊教育について勉強させていただいた学校です。
 計、15年間の北海道八雲養護学校に勤め生徒さんから学んだことは、外見上どんなに重い障害があっても、心は健常者と同じ発達をしているという事です。野球もやりたいし、映画もみたい、恋愛もしたい、街に歩いている普通の青年となにもかわらない心が育っているのです。

 とは言ってもだんだん身体の筋肉は衰えてきている現実はよく分かっているのです。私は、自分の特技である電気の知識や無線の知識がこの学校の生徒さんに役にたたないか、また、病棟と学校だけの生活を最新の通信技術を使って拡大できないか、健常者と同じ行事に参加出来ないかなど、いくつかの先進的な教育活動を実践してきました。主な実践は、
(1)アマチュア無線を使っての地域との交流
(2)パソコン通信、インターネットを使っての全国、世界と人々との交流
(3)使用済み切手の収集など社会に貢献出来る活動
 これらの実践に当たっては、多額の予算と職場の協力が不可欠でした。幸い何代もの校長、職場の同僚、事務部そして、PTA、地域の方々、北海道教育委員会、報道機関、関係企業等、幅広い組織や人々から協力を得ました。




屋上にアンテナのタワー建設中



JH8YFI開局 八雲養護ハムコード 開局第一声


(1)アマチュア無線クラブ開局

 私の少ない特技を、八雲養護学校の生徒さんのためにフルに出し切ることが出来たこの人事異動に感謝をしています。私は、初めての特殊学校勤務でこの学校の特色として、生徒さんが病院と学校という狭い社会で生活していることに気が付きました。家族も遠く全道各地に住んでいて、物理的にも精神的にも生徒さんから離れています。家族も相当の努力をして、年間数回面会に来ていますし、学校の行事にも参加しています。片道500km以上も離れ、車で10時間以上走らなければならない家族もいるのです。たった半日の面会や行事であっても家族は1泊2日、あるいは2泊3日の時間が必要です。このためどうしても家族とも疎遠になるのは仕方のないことでしょう。生徒さんが夏休みや冬休みに帰省しても、元の学校の友達との交流も次第に切れてきます。療養生活が長くなればなるほど友達や出身の地域からも忘れられていくのです。
 私は、生徒さんの友達関係を調査してみました。私の予想のとおり病院や学校の友達だけで、元の学校や出身地域で手紙や電話で交流しているような友達はほとんどいないという回答でした。
 私は、アマチュア無線という趣味のお陰で、毎日が異業種交換会のように様々な人々と交流してきました。例えば、バンコク日本人学校派遣時代も、日本人社会だけでなく、現地タイ人のハム、現地に来ている多くの外国人ハムと交流ができました。僻地5級の太田小中学校においても、生徒さん達を電波を通して全国のハム仲間と交流することが出来ました。私は、この環境にいる生徒さんに無線の免許を取らせ、地域や全国の人々の交流は出来ないものか考えていました。
 私は、積極的に生徒さんにアマチュア無線を紹介するため、無線機を1台教室に持ち込む許可を校長に願い出ました。幸い校長も私の企画に賛同してくれ、私の学級に短波の無線機を1台設置しました。アンテナは、受信だけなので、中庭の外灯に結びつけた簡易なアンテナです。
 私の教室には、パソコンと無線機が置いてあるので、他の学級の生徒さんも来てさわっていくようになりました。無線の方は国家試験があると説明すると、
 「僕には無理だ。」と初めから消極的な生徒さんが大部分でしたが、高等部の生徒さんで数人が試験を受けてみたいという事になりました。アマチュア無線の国歌試験を行っている財団法人日本無線協会に、八雲養護学校の病気の生徒さんが数名試験を受けたいと言っているとお願いしたところ、6月に学校で移動試験を実施してくれる事になりました。
 この話が決まるまでにすでに4月の末になっていましたが、急いで国家試験対策の勉強会を開きました。放課後に残って勉強会を開くのは、生徒さんの入院している病院の許可が必要でしたが、これも趣旨を理解いただいて勉強会が実現しました。
 昭和57年6月、4名の高等部の生徒さんが、無線従事者の国家試験にチャレンジしました。私も合格発表まで結果が心配でしたが、合格は、高等部2年のT君1人でした。それでも開校以来の快挙と校長や同僚が喜んでくれました。以後約数年間ほど国家試験の移動試験が実施され、次々とアマチュア無線資格合格者が出ました。最高で7回チャレンジして合格、無線従事者証を手にしたY君などがんばった生徒さんもいました。
 この異動試験がなくなり財団法人日本アマチュア無線連盟(後に財団法人日本アマチュア無線振興会)の主催する「養成課程講習会」を学校で開講しました。私が太田小中学校時代にこの養成課程の講師資格を得ていたため、学校を会場に開催する事が出来ました。この「養成課程講習会」の開催によって、多くの生徒さんや学校職員、病院の職員、地域の人がアマチュア無線の資格を得たのです。

佐藤輝彦校長もハムの免許取得

(2)無線クラブ局開局

 6月の末T君のアマチュア無線技士の資格を得たことで、高等部に無線局を開局することになりました。私の所属は、中学部でしたが高等部の選択教科であった「電気」を指導のため高等部に行っていました。その授業の中で、「無線」を扱う事になったのです。早速、校舎の上にアンテナを上げる計画を立てました。事務部と打ち合わせせ、パイプの溶接などをしてもらう事になりました。ほんの二日ほどで溶接したパイプが納入されたのには驚いてしまいました。事務部もこの無線局の開局に積極的に協力してくれ、その後も、約100万円ほどの無線機材の整備に積極的に動いてくれたのです。早速屋上に簡単なアンテナが上げられました。屋上には、高等部の先生方が女の先生も含め総出で手伝ってくれました。多くの学校では、校舎にアンテナを上げるのに学校の許可がなかなか下りず、無線クラブの生徒や顧問はとても困っているのです。
 7月6日、「北海道八雲養護学校アマチュア無線クラブ、呼び出し符号JH8YFI」が開局しました。私が、八雲養護学校に赴任してわずか3ヶ月という超スピードの開局です。校長や同僚の協力の賜と感謝しています。


(3)地域との交流活発に
 幸いアマチュア無線の資格取得者は、次々と増え3年ほどで20名を超えるたのです。つまり、中学部、高等部の在籍生徒の半数近くが資格を持つようになりました。また、学校の教職員、病院の医師や職員にも広がり、八雲町のアマチュア無線は一挙に活性化しました。地域のアマチュア無線家との交流も活発になってきました。

地域のハム仲間と交流 勉強会         案内


(4)セブンネットで地域や父母と交信
 昭和58年、電波法の改正でアマチュア無線に「中継」が認められることになりました。この「中継」というシステムを使うと、小さなハンディートランシーバーで出した弱い電波を増幅して中継、はるか遠く100km以上も電波の飛ぶ範囲が拡大されるのです。昭和58年11月、この中継機を地域の八雲アマチュア無線クラブの有志が資金を出し合って設備してくれたのです。これまで生徒さんは無線室まで行かなければ電波を出せなかったのですが、ベットの上から、道内各地と交信することが出来るようになったのです。この中継システムの利用法を生徒さん達と考え、定時交信を開始したのです。これは、八雲養護学校の生徒さんが進行役になって毎日午後7時にこの中継機を使って、地域のハム仲間に呼びかけます。
 「CQ CQ、地域の皆さんお聞きの方はチェックインしてください。こちらは、キイ局 JH8YFI 佐藤です。どうぞ。」すると、中継機の周波数を聞いていた人たちが、
「こちらは JA8ATG八雲町の原です。どうぞ。」というように応答して来ます。私も最初は、参加してくれるのは、八雲町の人くらいと思っていましたが、その輪はどんどん広がって、伊達市、室蘭市、札幌、函館などに広がっていきました。もちろん私たち八雲養護学校の生徒さんや教職員、入院している病院の職員さんなども出てくれます。そして、それぞれ簡単に今日の出来事などを紹介します。
 「只今食事中です。今日は、サンマの塩焼きと大根おろしです。病棟の夕食はなんでしたか。どうぞ。」など日常的な話題です。こうして、7時30分にはネットは終了です。最初のうちは、参加者が少なかったので、私たち教職員は八雲にいる限りは絶対出ると決めて、7時になると必ずハンディ無線機を取り出しネットに出ました。例えば、
 「今日は先生方の忘年会です。ですから一声だけでさようならです。」というように、ある時はお風呂から、ある時は車から、とにかく絶対ネットに出るよう努力していました。八雲養護学校の同僚は、よく協力してくれました。このネットが欠かさず続けられているという事で、地域のハムの皆さんも沢山参加してくれるようになりました。父母の皆さんも免許を取得、自宅から参加してくれるようになりました。電波を八雲まで届かせるために30mもあるタワーを建てた300km近く離れた奈井江町の保護者がいました。当時は、病棟のお子さんと電話で話そうとしても、詰め所までお子さんを呼んで来なければなりません。そのためには自分で動ける生徒さんはまだいいのですが、ベットから車いすに乗れない、動けない生徒さんとは電話でお子さんと自由に話せなかったのです。そこで、親子で無線の資格を取り、「中継機」を使って入院中のお子さんと毎晩話しをしているというほほえましい電波がとびかいました。この「中継機」の設置は、入院している生徒さんにとって大きな意義があったのです。
 7時に始まるので、「セブンネット」です。こんの「セブンネット」は実に15年間続きました。私の勤務していた11年間、そして、その後も続いたのですが、私が八雲養護学校に校長として戻った平成9年には、生徒さんで免許所有者がいなくなっており、この「ゼブンネット」も休止していました。校長になって直接生徒さんを指導する機会を失い、とうとう無線クラブの活動も復活出来なかったのは残念でした。
 セブンネットをこれだけ長期にわたり維持出来たのは、地域、保護者、病院の職員、学校の職員の協力のお陰です。また、八雲養護学校を卒業して継続して入院しているOBの皆さんの協力も大きいのです。セブンネットのキイ局は、在校生が行うのですが、終わった後のOBによる評価は手厳しいのです。まず、時間です。正確に7時です。これはしっかり指導されていて、当日のキイ局の当番の生徒さんは、テレビの7時の時報に合わせてセブンネットを開始しなければなりません。話し方、話題の取り上げ方なども後でOBから評価され指導を受けるのです。
 「10秒遅れた。」「声が小さい。」「言葉がはっきりしない。」などOBは、評価します。もちろんうまく参加者から話題を引き上げたりするとお褒めの言葉をいただくのです。こうして一人前(?)のオペレーターが育成されていきました。
 私の期待しない成果もありました。病棟の婦長さんからです。
 「先生、無線に出ている学生さん、挨拶がよくなりましたよ。それに、筋ジス患者に声を出させる事はいいリハビリなんです。」婦長さんのありがたい評価です。実は、筋力の衰えた鉛筆も自分で持てない生徒さんが、軽いとは言え、ハンディートランシーバーを手元に持ってきたり、電池の充電をするにもみんな病棟職員さん介助が必要なのです。ですから15年間セブンネットが続いたということは、病棟の職員さんの陰の大きな援助があったのです。
 病院の職員さんも多数の方が無線の免許を取ってくれました。お医者さんも何人か免許をとりましたが、お医者さんと言えども後から免許を取ればハムの世界では後輩です。回診に来たときは医師と患者の関係です。ところが無線の電波の世界では、生徒さんの方が先輩です。
 「○○君、こういう時はどうするのかな?」
 「えーと、それはですね−−−−。」と無線では先輩の生徒さんが指導するという事になります。今まで回診の時しか話せなかった医師や看護師さんともまた別な立場で話せるのです。
 セブンネットでつながったハムの皆さんも、国道5号線を車で通る度に八雲養護学校に寄ってくれる人もいました。八雲高校のハムの生徒さんも遊びに来てくれるようになりました。
 この間二人の校長先生がハムになって、このセブンネットで直接生徒さんと交流してくれました。ありがたいことでした。

みんなのベットにハンディー無線機が


(5)予想しない生徒さんがハムに

 私が八雲養護学校に勤務してアマチュア無線を広めて数年が過ぎました。大勢の生徒さんとアマチュア無線を楽しんできました。ある時、重度重複学級のSさんが文字盤を持って私のところにやって来ました。彼女は、重度の脳性麻痺のため発声ができず、全く話せないのです。そのSさんが、文字盤で、
 「わ た し も む せ ん や り た い。」と申し出てきたのです。
 私は外見上の障害の重さで勝手に判断して、「Sさんは無線はやらない。」と決めてたのです。でも彼女は、仲間の多くが無線で楽しく交流しているのを見て、自分もやってみたいと思ったのでしょう。私は、大変申し訳ないことをしてしまったと反省しました。私は、すぐアマチュア無線の養成課程の担当者に電話をして、このような脳性麻痺のために「話せない」「字も書けない」生徒さんが、無線従事者の資格が取れるか打診してみました。その時点ではかなり難しそうでしたが、当時の校長が直接東京の社団法人日本アマチュア無線連盟まで出かけ要請したこと等で、とりあえず講習会の受講の許可が出ました。また、終了試験は4択ですので、1,2,3,4と大きく書いてもらい試験管に正解の番号を指さしをして示すことで行う事になりました。Sさんの試験のため病院の職員さんも協力してくれ、病棟でも無線の勉強をしていたようでした。そして、とうとう試験を受け見事に「無線従事者免許証」を手にしたのです。Sさんの取り組みはNHKのTVで30分番組として全国に紹介されました。
 それで、Sさんは、話せないで「文字通信」で全国のハム仲間と交信しました。沢山の全国のハム仲間から励ましのメールをもらっていました。文字通信と言っても、Sさんは全身に麻痺があり、キーボードの入力はとても大変な状況でした。1分間に5文字くらいの早さしか入力出来ないのです。今は、Sさんは他の施設に移り、インターネットで多くの人と交信しているそうです。
 その後、私はどんなに障害が重い生徒さんにも無線の免許を取らないか声をかけるようにしました。A君は、ベットから起きれないほどの重体でした。それでも彼は無線の資格を取りたいと、ベットに寝たままで受講しました。幸い講習期間中は病状に大きな変化はなく終了試験を受ける事が出来ました。試験後約1ヶ月で、A君にも「無線従事者免許証」が届きました。しかし、彼の様態は一層悪くなり、免許状が届いて1週間後に亡くなりました。残念ながら一度も電波を出すことが出来なかったのです。

Sさんも文字通信で全国と交信



(6)高校総体でがんばる

 私は、アマチュア無線の中でも、「製作派」と言われるタイプです。送信機や受信機を手作りすりのが大好きでした。また、科学的な実験をして楽しんでいました。しかし、八雲養護学校の生徒さんには、全く異なる「社会との交流の手段としてアマチュア無線を活用する」事を中心にやってきました。ところが教育の中でアマチュア無線を使った実践報告は、ほとんどありません。ですから20年以上アマチュア無線をやってきた私も八雲養護学校では手探りの状態で学校の中でアマチュア無線を進めて来ました。
 昭和60年、八雲養護学校のアマチュア無線クラブを指導していて、もっと拡大した活動がないか同僚とも話していました。私が同僚に、
 「2年後に北海道で高校総体があるそうだけど、うちの生徒さんに無線で参加出来ないだろうか。」そんな話をしていて、思い切って高校総体の推進事務局に相談に行って見ることにしました。当時、丘珠高校に事務局があって、事務局長の校長先生、事務局員の教頭先生にお会いしました。私は、
 「例えば、電波で高校総体の広報活動なんかどうでしょう?」と提案すると、
 「やって見て下さい。出来るだけの援助はしますから。」と支援を約束してくれました。私と同僚は学校に戻って、無線クラブの生徒さんと相談して、
1 出来るだけ多くの学校無線クラブとの連携活動とする。
2 いろいろな事務的な作業は、八雲養護学校無線クラブが行う。
3 地域で高校総体関係の行事がある時は八雲養護学校高等部も参加する。
 の3点を決めました。

 まず、全道の学校アマチュア無線クラブに声をかける事にしました。無線局名簿で確認すると、中学、高校、大学、専門学校43校にアマチュア無線クラブがありました。早速、八雲養護学校から、43の学校無線クラブに手紙を送ったところ、全43の学校が協力するとの回答を得ました。そこで、「電波で10万局に高校総体をPR」と言う企画書を作り、各校に提案しました。この案も認められ、すぐ高校総体広報用交信証のデザインをデザインの得意なI君にたのみました。カードは程なく、各学校の学校名や呼び出し符号が印刷され印刷屋さんから届きました。総枚数約5万枚、総重量は2000kgです。あまりの量に生徒さんもびっくりです。この5万枚を、1000枚毎に参加43校に小包として送るのです。クラブの時間に無線クラブ以外のクラブからも応援を出してもらって小さな箱に入れ、包装紙で包みガムテープそしてひもで結んで、別に用意していた住所のタグを貼って出来上がりです。

 こうして高校総体をPRする交信カードは、各校に配布されました。その後各校の無線クラブの活動を報告してもらって、「事務局便り」の印刷です。これは、予算の関係で年間2回の発行にとどめました。これも印刷屋さんにお願いして、立派な活版印刷です。電波での広報は、参加43校の協力で2年間順調に進みました。これまで、養護学校は比較的受け身の立場でしたが、事務局を引き受け、企画立案、事務作業など積極的活動に出た少ない例ではなかったかと思います。

 昭和61年は、函館で高校総体のプレ大会に参加、翌年本大会の高校総体開会式に高等部の希望者が保護者と共に参加しました。広い厚別陸上競技場のメインスタンドで普通校の高校生と共に開会式に参加しました。八雲養護学校の生徒さんの「かがやきのとき」だったのです。


総体広報活動を取材中 「部長さんご意見をどうぞ」



(7) パソコン通信で世界と交信

 病気で筋力が低下し重度の肢体不自由になっていく八雲養護学校の生徒さん、そして、病院での長期の療養を余儀なくされる生徒さんにとってパソコンはあらゆる事を支援してくれる強力な味方であることに気がついたのは、昭和57年4月、八雲養護学校に赴任して間もなくの事でした。初めは生徒さんの学習空白を補強したり、ドリル学習で利用してきました。鉛筆で字を書けない、筆を持って絵を描けない、本をめくることも出来ない、そのような生徒さんにもパソコンは何でもやってくれます。手紙を出せない生徒さんでも、電子メールで確実に情報交換を出来るのです。私は、特に生徒さんの情報活用能力をつけることで生徒さんの人生が変わるかもしれないと思うようになりました。幸い八雲養護学校に他校に先駆けて海外とパソコン通信が「出来るようになり、パソコン他の機材も多数整備いただきました。八雲養護学校での「情報教育」とパソコン通信を使った実践は、それぞれ別の章で紹介いたしましたのでここでは省略いたします。
 機器整備に当たりまして、北海道教育委員会、文部省の多大なご支援をいただいたことを御礼申し申し上げます。また、海外デジタル回線を提供下さった旧KDD、学校と電話局間の回線を提供下さったNTT八雲営業所、生徒さんと15年間の長期に渡り交流頂いた八雲アマチュア無線クラブの皆様、パソコンの指導をしていただいた当時のNTT八雲営業所の村井敦氏、八雲町役場の吉田邦夫氏にお礼を申し上げます。

KDDの海外デジタル回線を使って海外交信開始



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