国際理解教育

 1972年4月から1975年3月までの3年間、政府派遣教員として
バンコク日本人学校に勤務、帰国して国際理解教育に力を入れました。
 幸い職場の上司、同僚の協力のもとで、小学校、特殊学校で国際理解
教育を実践することが出来ました。
 一緒に活動した生徒の皆さん、上司、同僚、ご協力頂きました皆様に
心より御礼申しあげます。
原恒夫 はら つねお
〒065−0021 札幌市東区きた21条東18丁目4−16
電話 011−784−8649
E−mail ja8atg@jarl.com

1972年10月妻と筆者


1 バンコクはどこにあるの

 1971年12月29日、一通の北海道教育委員会の公文書と出会いました。
 「校長先生、海外に日本人学校があるんですね。?」
 「そう、今回が第一回の募集とあるね。原さん行きたいのか」
 「−−−−−−。」
 「でも家内が妊娠してますし。無理ですね。」私は、派遣先など詳しい募集要項に目をおとしながら、妻のこと、持っている学級のこと、やっと軌道にのりかかったアマチュア無線クラブの事を考えていました。
 
 「ねえ。今日、外国にある日本人学校の派遣募集が来たんだよ。」もう妻は、私の気持ちが分かっていたようでいた。
 「応募したら。でも、私はどうするの?」
 「応募しても必ず行ける訳じゃないんだ。結構たくさんの人が応募するだろうから落ちるだろう。きっと」私はそう本当に思っていました。

 ところが、冬休みがあける1月の末に、北海道教育委員会から、札幌まで面接に来るようにという文書が入ってきたのです。私はその時も派遣者に選ばれとは思ってもいませんでした。1972年2月、札幌では冬季オリンピックが開催されており、競技のメイン会場アイスアリーナの前を車で通り、北海道教育庁の面接会場に出かけました。いったい何人の方が応募し、そして面接を受けたのかはよく分かりませんでした。きっと私の専門教科のことなど難しい面接試験だろうと覚悟をしていたのですが、教育の専門的なことはほとんど聞かれなかったと思います。派遣になった場合の意思確認が中心であったと思います。

 忙しく過ごしていた2月20日、新採用5年27才の私が檜山教育局長から「教育実践の表彰」という大ハプニングのニュースが飛び込みました。いつも親身に指導して下さっていた野口校長からは、
 「原さん、おめでとう! この賞は、普通は定年寸前の人がもらう賞だ。原さんはその大賞を30年早くもらったんだ。全道でも最年少の受賞だと思う。それだけ北海道教育委員会は、あなたを期待しているんだ。おめでとう!祝杯をあげよう。」その夜は毎度の事ですが野口校長宅でご馳走になりまいた。2月29日、江差町で表彰式が盛大に開催されました。確かに他の受賞者は、大先輩の方々ばかりで場違いのところに出かけてきたように思いました。
                       
  そんなハプニングにすっかり海外派遣のことを忘れかけていた3月2日のことです。私が午前の授業が終わり職員室に戻ると、野口校長はあわただしく駆け寄り、
 「原さん、決まったよ。バンコク日本人学校! バンコクだよ。」
 「あのう、日本人学校ですか?」
 「そうさ、派遣決定と今電話が入ったんだ。ともかく奥さんにすぐ知らせてきなさい。」

 私は大変なことになったと思いあわてて学校のすぐ下にある住宅へ向かいました。走りながら妻はどんな反応をするか私は心配していました。妻に海外派遣が決まったことを伝えると、妻は、
 「おめでとう! 私は決まると思っていたの。一緒に付いて行くよ。私も幸枝(長女3才)も付いていく。」7月に出産予定の妻はすっかり覚悟を決めていたというのです。私達はあわてて地図を開きました。
 「バンコクはどこにあるんだ?」

 考えるまもなく横浜での研修、外務省での壮行会、戻って来ての太田小中学校の卒業式、持って行く物の準備、実家への報告など目の回るような1ヶ月が過ぎて行きました。幸か不幸か、国会の予算案の審議が遅れて4月1日派遣の予定はずれ込み、4月10日となり羽田空港からバンコクへと向かいました。


  プロンチットロードにあったバンコク日本人学校 6年1組 (昭和48年4月撮影)




日本人学校に作った電子工学クラブ

2 エッ! 国際交流出来ないの?
 
 私の少ない知識でも、海外にある日本人学校では、現地の学校との交流が活発に行われているという認識でした。しかし当時のバンコク日本人学校は、タイ政府からは学校として公認されていなかったのです。 目立たないようにしていなければならないとうい立場にあった当時のバンコク日本人学校は、幼稚部、小学部、中学部合わせて800名にもなっていました。実際にタイ政府は、対日関係で日本に圧力をかけるときは、「日本人学校閉鎖」をちらつかせていました。日本の新聞には、「バンコク日本人学校閉鎖される」というような記事まで出ることもありました。この不安定な日本人学校のステイタスは、1973年9月田中首相の訪タイで決着がつきました。それは、次の年の1974年からタイの私立学校法に合わせ、正式の学校と認められることになったのです。
 私は、派遣の任期3年が気になっていました。すぐにも現地の学校と交流活動を進めたいと考えていましたが、これは、きわめて困難なことでした。バンコク日本人学校に赴任して、やっと外国の生活にも慣れ初めていました。日本人学校の生徒さんの生活を見ても、学校とアパートを通い、日本人の子供同士でもいったん学校から家に帰ると孤立している状況でした。
 「国際交流も大事だが日本人の子供同士の交流も機会を作らなければ。」と私は予想しなかった課題にも気が付きました。現状を分析して、私のアイデアとして妥協案のようなもながだんだん固まってきました。
 「そうだ、日本人学校から距離を置こう。日本人会の中に子供会のような組織を作れば、在留日本人の子弟間の交流も出来るし、タイの子供達との交流も出来るかもしれない。」私は、早速動き始めました。
 日本人会の役員さんと言っても私には知っている方はなく、日本人学校の役員さんを当たる事にしました。幸いにもPTA副会長のJALバンコク支店長の古城さんが日本人会の役員とわかり早速相談に出かけました。私は、バンコクでの時間を3年間と区切られたことがとてもよかったと考えています。もし3年という期限が切られていなかったらこんなに行動出来なかったと今でも思っています。古城さんは、私の発想にすぐ賛同してくれて、日本人会でのバックアップを約束してくれました。
 新しい組織には、スタッフが必要です。同僚の日本人学校の職員、そして、在留邦人の中にいる青少年、組織を長く維持させるための現地に定住しているいる青年などを候補にあげました。たえず私は、私が前面に出てはいけなと思い組織の裏方に徹しました。また、現地の日本人青少年のISB(バンコクインターナショナルスクール)の卒業生や日本人学校のOBに声をかけました。そんな時、日本人学校に長く勤務している先生から、現地に定住している石井良一さん、原田穣二さんを紹介されました。この二人との出会いで全く新しい展開へと動いて行ったのです。石井さんはお父さんがバンコクで印刷屋を経営されており、その仕事を手伝っておりました。日本人学校の卒業生であり現地について、もちろんくわしいのです。もう1人の原田さんは、タイの印刷関係の会社に勤務していて、いろいろな経験をアドバイスをしてくれました。
 そして、1972年 月ついにバンコク日本人会の中に、「青少年サークル」という新しい組織を立ち上げる事ができました。


 タイサトリビタヤ女子高校とのバレーボールの試合

3 バレーボールサークルはアジア大会競技場

 事務局として青少年活動の具体的な活動計画を企画していた私は、石井さん、原田さんと連携しながら具体的な活動を計画しました。いえ、計画と実行が並列していました。
 「よし、オレのところの暗室を開放するよ」青少年のための活動をどんなものにするか話し合っていたとき石井さんは、「写真サークル」を提案、原田さんと共に指導してくれる事になりました。「音楽サークル」「茶道サークル」「華道サークル」「テニスサークル」「バレーボールサークル」「ボーリングサークル」など最初に在留邦人の子弟のための活動を充実させることにしました。早速石井さんのお父さんの会社の暗室を占領して「写真サークル」の活動がスタートです。バンコックでの被写体は抱負です。寺院巡り、人々の生活、メナウ川など日本ならわざわざ出かけて来なければならない訳ですが、ここはいくらでも素晴らしい被写体があるのです。「音楽サークル」は日本人学校音楽室、卓球部は日本人会、次々とサークル活動はスタートしていきました。指導者も在留邦人の中からお願いしてボランテアの指導者が決まっていきました。ところが体育関係の会場がなかなか見つかりません。勿論お金を出せば立派な施設を使えるのですが、出来たばかりの青少年サークルには予算がありません。石井さんにどこか安くて良い施設はないかと相談していましたが、さすがの石井さんも、「安く」という条件には困ったようです。ある時、サナムキラー(国競技場)の前を通りました。りっぱな競技場の割にはいつも正門は閉まっています。
 「あんまり使ってないのかな?」私は、その時無茶なこことを考えていました。
 「国立競技場を借りよう!」 こんな時タイ語のペラペラの石井さんと来ればとよっかったと思いましたが、その時は1人でした。私は思いきってサナムキラーの事務所を訪ねて見ました。もちろん守衛さんに不審者として呼び止められましたが、そこは外国人の特権です。英語で適当に事務所のスタッフとアポがあると言うと通してくれました。国立競場の事務室は、施設のずっと奥にあり、事務室に行って、
 「日本人会ですが、日本人の青少年がテニスやバレーボールを練習したいのです。施設を貸して下さい。」とお願いしました。受付の女性には、私のブロウクンな英語はほとんど通じません。女性は奥の部屋に私を案内してくれました。そこはとても大きな部屋で、タイの役人の制服を着た男性が座っていました。その方は、英語が良くできて私の施設借用の申し出を理解できたようでした。特に私は、タイの青少年と日本の青少年がスポーツを交流し、タイ日の交流をしたいことを強調しました。するとどうでしょう。
 「使って下さい。使用は土日ですね。この申込書に使用の日時を書いて下さい。タイの青少年と交流の目的なら使用料は免除です。」私は、驚いてしまいました。すぐにOKが出たのです。
 「タイの青少年チームの紹介もしますよ。」この嬉しい対応に私は感激してしまいました。
 早速、「テニスサークル」「バレーボールサークル」が練習を始めました。なんせサナムキラーはつい最近アジア大会で使ったばかりの立派な施設なのです。

 練習を始めてほんの2ヶ月ばかりした頃、例の事務所の方が見えて、
 「試合をやりましょう。みんな素晴らしく上手だ。」ともうタイの青少年との試合をやろうというのです。この誘いを受けて、ともかく挑戦は受けようとバレーサークルが対応する事になりました。早速ある日曜日に男子バレーの試合が行われました。こちらは、ISBの高等部に通う日本人と日本人学校の中学部の生徒の混合チームです。石井さん、原田さん、バレーを指導してくれていた永井夫人、私などが出てこのタイ日青少年の歴史的(?)試合を観戦しました。
 「相手は偉く強いな!」私の感想に、タイ語の分かる石井さんが相手チームの監督さんから聞いたという情報では、このチームは、タイの高等学校第二位のチームとのことでした。
 「全国2位と2ヶ月練習しただけでは勝負にならんな。」と私はぼやいていました。しかし相手チームも多少の手心を加えてくれたのか、結果は2対1で、惜敗ということになりました。試合後は、両チームの選手と私達世話役で交流会を開きました。私はタイ語が出来ず、片言英語で話していましたが、生徒さん達は上手にタイ語を使い交流していました。バンコク日本人学校では、英語の他にタイ語も必修で取り入れていた成果でしょう。私の期待した国際理解の活動のスタートの日となったのです。



4 充実し始めた青少年サークル

 1973年4月には、日本人会の中に「青少年部」が独立して認められました。これは前述のJALバンコク支店長の古城氏の努力のお陰でした。初代青少年部長には日高氏が任命されました。勿論青少年サークルへの予算も4万バーツ(当時役80万円)がつきました。これで会場費などもそんなに不自由なく使えるようになりました。会の指導者の育成強化にも努めました。各サークルの部長さんとして活動しているリーダーの為の研修会を企画、自立的な組織を目指したのです。一部のスポーツサークルにタイの体育大学の先生にお願いして、親善試合などにも対応出来るレベルアップもはかりました。

 音楽サークルの発表の場が欲しいと要望が出ていました。何度か広報活動の一環として私の趣味の仲間が局長をしていた陸軍の放送局(HSAA)からラジオで「日本人会の子供達の演奏」ということで15分に編集したテープを持ち込み音楽サークルを紹介をしていました。これは、音楽サークルが練習する日本人学校の音楽室で私がオープンテープに録音、同じく放送室で石井さんのタイ人のガールフレンド(後に結婚)にナレーションをいれてもらいHSAAに届けていました。しかしライブでの発表をしたいという意気込みが音楽サークルからあり、当時の高級ホテルであったズシットタニーホテルのシアターを借り「演奏会」を開催しました。会場費などの経費もあり、500人は聞きに来てくれなければ、収支バランスがとれないというビックイベントでした。幸い、日本人の婦人部のコーラス部も友情出演をしてくれる事が決まりました。友情出演とはいえバッチリ入場料はいただくという虫のいい企画でした。これで、とりあえず最初の入場者50人を確保できたのです。こうして日本人会を中心に500枚の入場券を売りさばき、音楽会は開催にこぎ着けたのです。この企画と運営は、勿論私や石井さん、原田さんが陣頭指揮をとりましたが、青少年サークルの役員の皆さんも参画、組織の運営について大いに学んだのではないかと思います。司会、受付などの実務も青少年サークルの皆さんが係り分担をしました。

 私や石井さん、原田さんの理想とする活動が徐々に完成していきました。僅かの期間でここまで青少年サークルが充実出来たのは在留邦人の青少年の皆さん、保護者の皆さん、日本人社会のニーズに応じた活動であったと思います。


テニスサークル 音楽サークル バレーボールサークル
   ボーリングサークル      華道サークル       剣道サークル
茶道サークル 小旅行(クワイ川) 研修会(ホアヒン)

 

5 国際理解教育はトイレ談義から

 昭和50年3月にバンコク日本人学校から帰国した私は、北海道檜山郡の江差町立江差小学校に赴任することになりました。江差町は檜山支庁所在地の管内一大きな町です。その昔、「江差の春は江戸にもない」と言われるほど商業や漁業が栄えた町です。また、民謡「江差追分」で全国にも知られています。江差小学校は、生徒数900人ほどで地方としては大きな学校です。私は、私の希望で特殊学級の担任となりました。当時特殊学級は、他の学級から離れ、閉鎖的な雰囲気がありました。私は、出来るだけ普通学級の生徒さんとの交流を図りたいと、私の学級をクラブ活動の活動拠点にするなど多くの普通学級の生徒さんを特殊学級に呼び込む工夫をしていました。
 私の実力がなっかたのか、1年で普通学級へ配置転換となりました。帰国して、海外派遣された教員の義務として、「国際理解教育」の実践がありました。つまり、派遣された国の文化の紹介などを積極的生徒さんにして、世界の国の人々との係わりをもたせるという事です。私が普通学級の担任になった事で、「国際理解教育」が進めやすくなったのです。(障害のある養護学校でも、国際理解教育は実践しましが、紹介は後ほど)
 
 私は、私は社会の時間などで、タイでの生活を紹介をしていましたが、生徒さん達はとても興味を持って聞いてくれました。
 「タイのトイレは、どっちが前かわからなくて、座るとき困ったんだ。」
 「だけど、日本よりずっと進んでいるぞ。どんな田舎に行っても水洗トイレだぞ。」
 「トイレは、タイ語でホン(部屋)ナム(水)と言って水の部屋という意味なんだ。」私の、国際理解教育は、いつもトイレ談義から始まります。そして、チェンマイまでの修学旅行のスライド上映などで日本人学校の紹介もしてみました。
 「タイの日本人学校の5年2組と交流してみないかな。」私の提案で、早速学級の生活委員がバンコク日本人学校5年2組に手紙を書く事になりました。この文通が思わぬ国際理解教育に発展したのです。

 当時のバンコク日本人学校の担任の先生、そして、学級の皆さんの対応は、敏速なものでした。10日ほどで返事が航空便で届きました。私のクラス5年2組の生徒さんがみたことのない、青い航空便の封筒に入ってその手紙は届きました。返事の手紙、学級写真、学校の写真が届きました。
 「江差小学校5年2組の皆さんこんにちは! 是非私たちと姉妹学級になって交流しましょう。」この返事に私の学級の生徒さんは大喜びです。早速こちらも1人ずつの写真を撮って簡単な自己紹介文を書きました。自分たちがまだみたこともないバンコックからの手紙は、私が話すタイの紹介より遙かにインパクトがあったのです。

 こうして江差小学校5年2組とバンコク日本人学校5年2組の交流が始まりました。

 ある時、久しぶりに東京に「海外教育子女振興財団」を訪ねる機会がありました。面識のあった当時同財団の藤本専務理事に私のクラスとバンコク日本人学校の生徒さんとの交流など、細々と「国際理解教育」を初めていることを報告していました。事務所では、同財団の主催する「海外子女図画作品コンクール」の作品が世界の日本人学校から届き、盛んに職員さんが整理をしているところでした。
 「すごい数の作品が集まってますね。見せてもらってもいいですか。」私は、海外日本人学校の生徒さんがどんな題材を絵にしているのか興味がありました。私がバンコク日本人学校に勤務していた時は、図工の時間に学校の近くのルンピニー公園などで写生をさせた事を思い出していました。

 私が予想したように、海外日本人学校から出されていた図画作品は、それぞれの国の名所であったり市民の生活が描かれていました。私は、すぐ藤本専務にお願いしました。
 「専務さん、この作品ですが審査が終わったら全部貸してもらえませんか。江差小学校で展示させて下さい。」
 「いいアイデアですね。私の方からもお願いします。是非展示して、北海道の生徒さんにみせて上げて下さい。」

 審査が終わった3月中旬、30カ国の日本人学校、日本語補習校の生徒さんの応募作品165点が江差小学校に届きました。この作品は、5年団の他の学級の協力も得られて、5年生の4教室の廊下の掲示板全面に展示されました。展示会のタイトルは、「日本人学校児童絵画展」です。この絵画展は、北海道新聞で報道されたこともあって、校内はもちろん町内の学校の生徒さん、江差の町民など多数の方が見に来てくれました。私もゆっくり1人1人の作品を見ましたが、実にそれぞれの国の人々の生活が描かれていました。私は当初、「国際理解教育」はなにか凄い高いレベルのものを生徒さんに与えなければならないような思いこみを持っていましたが、実は、もっと日常的で、子ども達の生活の中にころがっていることが「国際理解教育」になりそうだという事が見えてきました。

文通展 ユニセフ国際児童画展 海外子女図画展 文通相手の絵の前で



6 地域に根ざした国際理解教育

 昭和50年4月、江差小学校に赴任して、海外日本人学校の経験を生かして国際理解教育を進めたという考えはありましたが、ではどうやって、どんな教材でとなるとハタと行き詰まってしまいました。5月になって、江差小学校の眼下の江差港に幕末の軍艦「開陽丸」が沈んでいるのが発見され、一部を引き上げるという事で、全校生徒でその引き上げ作業を見学することになりました。江差港の防波堤の近くには、潜水夫が10人近く作業をしていました。大砲が発見されたとのことで、今日はその大砲を引きあげるのだそうです。私たち江差小学校の全校生徒900名、そして沢山の町民の皆さんが見学に来ていました。報道各社も来ていて、港は大変な騒ぎです。
 大砲は、大きなクレーンで海中から現れました。100年以上も江差港に眠っていた大砲は、赤くさびて海藻が一杯ついていました。私は、生徒さん達と、
 「すごいな!こんな大きな大砲を付けて開陽丸って凄い船だったんだね。」などと話していました。
 
 私が5年2組の担任をして、この「開陽丸」も「国際理解教育」の教材になるのではないかと考えていました。当時の新聞報道では、この船は、オランダで作られ、榎本武揚が北海道に渡るために乗ってきた当時の最新の軍艦でした。なぜ、江差港で沈んだのか、また「開陽丸」はどんな船だったかもはっきりしていませんでした。私は、生徒さんに、
 「開陽丸の研究をしてみないか。なんかおもしろそうな船だぞ。」と持ちかけてみました。ちょうど5年2組が全校の新聞委員会を受け持っていて、新聞委員会の仕事としてもおもしろそうだったのです。幸い、学級の生徒さんの家の向かいのおじさんが以前から開陽丸の研究をしているという事も分かりました。そのほかにもこの町には、何人かの人が開陽丸を研究している人がいることが分かりました。冬休みに生徒さんで手分けしてこれらの町の研究家を回り、開陽丸について調べることにしました。町の研究家は親切で、生徒さんにいろいろな情報を話してくれました。また、これまでに集めた資料のコピーを渡してくれました。
予想以上に開陽丸の情報が集まったため、3学期に小冊子「開陽丸」を発行することになりました。私の学級では、「夏休みの自由研究」「文集」などをこれまでに何冊も発行しており、本作りはおてのものです。編集、印刷、丁合と作業は進んで、B5版37ページのの冊子が完成しました。この冊子は、2年後に活版印刷で増冊され、町の本屋さんなどで頒布され実に4千冊も町内外の人たちに読まれたのです。
 
 「開陽丸」の研究は、後にこの船を造った造船所のある街、オランダのドルトレヒトの小学校との交流に発展したのです。




7 広がった日本人学校の生徒さんとの文

 5年2組のバンコク日本学校との文通は、となりの学級にのひろがりました。こちらは、5年1組同士です。この学級文通が始まって、5年1組、2組の他、他の学級からも海外日本人学校の生徒さんと文通をしたいという希望が出てきました。私も日本人学校の文通が広まれば、国際理解も進む事が予想されますので、積極的に文通に取り組みました。私はバンコク日本人学校には元の同僚もまだ勤務していてルートは開けたのですが、他校についてはコネクションがありません。そこで、先に借用し開催した30国の日本人学校、日本人補習校の図画の出品した生徒さんに手紙を出させる事にしました。江差小学校の文通希望の生徒さんを集め、自分の好きな作品の前で写真を撮り、手紙に添えて送らせたのです。突然文通の申込みをしても相手の生徒さんが驚くだけですので、「あなたの絵の前で撮った写真です。私は、あなたの絵が気に入ったので手紙を書きました。」というような相手の生徒さんに強い印象を与える工夫をしたのです。この江差小学校の生徒さんが送った20名ほどが書いた手紙にはほとんど返信がありました。すると、また、新しい江差小学校の生徒さんが、
 「私も日本人学校の生徒さんと文通したい。」どんどん文通希望者が増えてきました。

 年度が変わり昭和52度になり、私は、どんどん「開陽丸」や「文通」で国際理解教育が広がっていく感触を得ていましたので、新学期に当たり、職員会議で児童の委員会活動に「国際交流委員会」の設立を提案しました。すでに文通がかなりの学年まで広まっていたことから、同僚の多くの賛同を得られました。こうして、私が普通学級に来て、わずか1年で、教育課程の中に「国際交流」が位置づけられたのです。

 「国際交流委員会」は言い出した私のクラス、6年2組が受け持つことになりました。さっそく、開陽丸を作ったオランダのドルトレヒトの学校との交流企画の検討、日本人学校の児童の絵画展の継続、日本人学校の生徒さんとの文通の拡大などが話し合われ、今まで以上の活発な国際交流活動を展開することになりました。

 文通は、すでに文通希望者がどんどん増えて2年生から6年生まで100人近くが「相手待ち」の状態になってしまいました。そこで国際交流委員会では、世界の日本人学校、日本語補習校の全校56校に、「文通希望」の手紙を出しました。すると多くの日本人学校、補習校から応答があり、文通が成立するようになりました。

 国際交流委員会で募集に応募した日本人学校、補習校の生徒さんには、簡単な文通相手の希望を書かせていました。例えば、「6年生男子で、趣味はプラモデルです。プラモデルの好きな人ならだれでも。」というような具合にです。それで、すぐこの応募を掲示板に貼り、江差小学校の児童の文通希望を募るのです。先着2名にこの日本人学校の生徒さんを紹介します。と言っても小学生に外国郵便の宛名が書けませんので、私が英文タイプで謄写板の原紙に宛名書きを
しておき、文通係の生徒さんに謄写版で航空便の封筒10枚に印刷してもらいます。その10枚の封筒を文通希望の生徒さんに渡して紹介は終わりです。今ならパソコンで処理して、タックシールを渡しておけば良いのですが、当時は謄写版で印刷です。文通係の生徒さんは大変だったと思います。

 こうして日本人学校、補習校の生徒さんとの文通は完全に全校のものになりました。900人の生徒さんのうち、実に250人が日本人学校の生徒さんと文通を始めたのです。驚いたのは江差郵便局です。この町で今まで「外郵」は、年間ほんのわずかでしたが、ここ2年ほどで毎月100通、年間1千通以上が出るようになったのです。


8 予想もしない成果が

 さて、順調に伸びていた日本人学校、補習校との文通ですが、思わぬ成果が出たのです。郵政省は、毎年8月に「手紙作文コンクール」を開催しています。この年夏休み前に江差郵便局長さんが学校に見えられ、本校が文通が盛んになっていることから、「手紙作文コンクールに参加しては」と言う誘いがありました。それで、これは、6年団の学年会議にかけて、「夏休みの課題の一つに、日本人学校とか知人に手紙を出して、そのままこのコンクールにも応募しては。」という提案をしました。郵便局長さんの話では、全国から10万人以上の応募があるとの事を聞いていましたので、入賞などは全く考えられませんでした。夏休みの課題としたことで、江差小学校の6年生の約8割に当たる100人がこのコンクールに応募しました。すると、北海道地区審査で、本校から3人が入選をしたという事で私は勿論6年団の職員は驚いてしまいました。さらに驚いたことには、後日、全国審査で14万人の応募者の中から第3位に当たる「日本郵便友の会協会長賞」に入ったとの事でした。この作品は、文通をしていた、ボリビアの日本人学校の文通相手に送ったものをこのコンクールに応募したものでした。
 次の年の昭和53年度は、同コンクールで、全国第2位に相当する「文部大臣賞」ほか多数の入選を果たしのです。

 「開陽丸」を作ったオランダのドルトレヒトの学校との交流も国際交流委員会は進めていました。幸いオランダから「開陽丸」を研究しているヤン・デ・フリノスさんが江差町教育委員会に時々来ていましたので、このヤンさんを通じてドルトレヒトの小学校との交流をつないでもらうようお願いしていました。昭和52年9月この作戦が成功して、ドルトレヒトの2校が江差小学校と交流したいとヤンさん経由で返事をもらいました。その交流活動の第一弾として、国際交流委員会が全校の生徒さんに頼んで「カレンダーを贈る活動」を展開しました。持って来てもらうカレンダーは、江差や北海道、日本が紹介できる絵柄という条件付きでした。この条件にあった約150点がのカレンダーが集まりました。このカレンダーをドルトレヒトの2校の学校とドルトレヒト市長さんに船便で発送しました。船便となったのは、勿論予算の関係です。このカレンダー発送に当たって、一つ大きな問題が発生しました。町立学校の発送する郵便物は、郵便料金を「料金後納郵便」にしなければなりません。ところが江差郵便局には、外国郵便の「後納」のスタンプが無かったのです。しかし、これは江差郵便局の計らいで、何日もかからないうちにスタンプを作ってくれました。こうして、生徒さんの集めたカレンダーはめでたくオランダに旅立って行きました。

 翌年の昭和53年1月7日には、ドルトレヒトの市長さんからお礼のカレンダーが航空便で届きました。こんなにはやく返事やカレンダーが届くとは私たちは思っていませんでした。冬休みは終わって国際交流委員会の生徒達は大喜びでした。交流を約束した相手校からの反応はその年の6月にあり、これもゆっくりではありますが、交流活動が進んで来ました。

 昭和52年度は、江差小学校の生徒の日本人学校や補習校との文通は順調に進みました。多い生徒はもう10通以上も手紙を交換したとの事でした。手紙の中には、文通相手の写真、観光地を訪れた時の写真、絵はがき、観光パンフレット、新聞などが同封されて来ていました。また、誕生日のプレゼントを小包でいただいた生徒さんもいました。手紙を通しての外国の情報、写真や物を通しての外国理解はどんどん進んでいました。52年11月、国際交流委員会では、江差町民にも文通活動を紹介することになり、町の文化祭に、「文通展」「世界の切手展」を開く事にしました。文通展では、生徒さん1人当たりA2板のパネル1枚の中でこれまでの文通を発表するという事で、自分の文通パネルを作り発表しました。生徒さんにとっては写真1枚、封筒1枚が大事な宝物ですから、パネルには薄いビニールシートをかけて、汚れたり紛失しないようにしました。この「文通展」には、約100名の生徒さんが、自分の文通を紹介パネルを作成、江差町文化祭に展示しました。この生徒さんの「文通展」は、日常文通に携わっている私も感激したのです。それは、文通と言えば、アメリカ、イギリス、フランスなどほんの一部の先進国を相手にした場合が多いのですが、今回の展示では、実に多くの発展途上国との交信が発表されていたのです。私自身がこんなに生徒さんの文通が広がっていたことに驚いたほどでした。この文通展の事を北海道帰国子女教育研究協議会(後の北海道国際理解教育研究会)で発表してところ、何校かから「文通パネル」の貸し出しの希望があり、北海道各地の小学校を巡回展示されたのです。


文通が縁で派遣されたヒューストンの先生

9 ヒューストンの先生が来校

 これも全く予期しない成果の一つと言えます。当時アメリカテキサス州ヒューストン日本語補習校の生徒さんも数名の生徒さんが文通を続けていました。実は、補習校の生徒さんにとって日本語を身に付けさせるのは大変苦労していたようです。平日は、現地の学校で英語で勉強しています。土、日に日本語補習校に通うのですが、英語漬けの毎日の生活の中で、日本語を学ばさせるのは大変な努力の必要があったのです。たまたま江差小学校の国際交流委員会から文通の申込みがあり、文通がスタートしました。この文通は、私たちとしては「国際理解教育」というねらいが達成でき、相手側では「日本語の学習」という成果があったのです。当時ヒューストン日本語学校長(日系企業支店長)は、現地の小学校の教師に日本の学校を勉強させようと、「1週間江差小学校の研修をさせたいが受け入れは可能か?」という手紙が舞い込んだのです。勿論本校の校長からも受け入れOKが出て、この現地の教師の受け入れをしたのです。この企画も全く私たちの予想をしていなかった成果でした。
 アメリカ人教師の研修は、1週間と短期でしたが、江差小学校は全校体勢で歓迎しました。歓迎の全校集会、各学年での授業の公開、職員親睦会での歓迎会などです。まとめてしまうと1行になりますが、例えば全校集会では、アメリカ人の先生の歓迎をするため2週間以上も音楽クラブの生徒さんがアメリカ国歌の練習をしていました。各学部でも歓迎集会や特別授業のなど時間と手間をかけて準備をしてくれたのです。私は同僚1人1人の力の大きさに驚くとともに、協力態勢を作ってくれた上司に感謝しました。

  昭和56年、私は、これら江差小学校の国際理解教育の実践をまとめ、国際理解教育研究所の主催する「第5回国際理解教育奨励論文」に応募、全国トップ入選をさせてもらいました。応募者の多くが大学関係者でありましたが、小学校教員の私が優秀賞をいただいたことに感激しました。これも江差小学校の上司同僚の協力によって出来た実践でした。この場を借りて御礼申し上げます。その後10年を経て、文部省の指導要領に「国際理解教育」の重要性が明記されるようになりました。江差小学校の教育が、指導要領のこの分野の改訂に微力ながら影響を与えたのではないかと思います。未来に生きる日本の子ども達が多くの国の人々を理解し、平和な世界を作ってくれることを願っています。


使用済み切手を整理する生徒さん

10 特殊学校での国際理解教育を探る

 昭和57年4月、私は北海道八雲養護学校に異動になりました。昭和54年4月から障害のあるすべての義務教育年齢のお子さんが何れかの学校に籍を置き、どんなに障害が重くても学校教育を受ける事が出来るようになった画期的な年です。この昭和54年私は、特殊学校に異動の希望を出し3年後の昭和57年4月に養護学校勤務が実現しました。着任した北海道八雲養護学校は病弱養護学校で、多くの生徒さんが筋ジストロフィー症などの難病のために、八雲養護学校に隣接している国立療養所八雲病院に入院し、長期の療養を余儀なくされているのです。八雲養護学校は、小学部、中学部、高等部まであり、約70名の生徒さんが国立療養所八雲病院から通っていました。私は、この学校に赴任して、初めて病弱養護学校を知りました。中学部3年の担任となった私は、毎日筋ジストロフィーの生徒さんと生活をするようになったのです。すぐに気が付いたのは、近づいている死からの逃避です。このクラスの担任となってわずか数ヶ月後に、学級の生徒さんが亡くなりました。次の日私は重い気持ちで教室へ出かけました。学級の朝の会は普段のとおり明るく笑い声が交わされ、昨夜亡くなったKさんのことに付いては誰1人触れないのです。私は、つい先週まで、クラスの中心として活動していたKさんの死を悲しまないのが不思議でした。生徒さんは、完全に「死」から逃避しているのです。死は、八雲養護学校の生徒さんにとって、明日かも、今夜かもしれないのです。こわいのです。だから現実を認めたくないのです。私は、明るく朝の会を進める生徒さんを見て腹立たしく思いました。しかし、生徒さん達が間近に迫る死についていつも考えていたら、精神的に参ってしまうでしょう。死を考えないのが一番いいのです。逃避行動によって精神も肉体も守っているのです。その時、私が生徒さんと同じ経験を20年後に体験するなど予想出来ないことでした。
 
 私は、こんな学級の生徒さんに生き甲斐のようなものを作れないかと模索していました。短い人生になるかもしれない生徒さんの充実した一時はいったいなんだろうか。最初のホームルームでは、これまで続けられてきた、学級委員や係は、みな学級のつまり自分たちのための自治的な活動ばかりでした。私は、8年ぶりに中学生と接してこの学級がものたりなく感じました。
 「そうか。君たちは、中3のクラスが自分たちのためだけの活動で満足出来るのか。」私は、この言葉にすぐに勝ち気なKさんがのって来ました。
 「私たちに学級以外のことなんか出来ません。それだって精一杯です。」 
 「そうかな、障害や病気のある人達でも社会のために出来ることって一杯あると思うけど。」 
 「それじゃあなにか具体的に言ってみて下さい。」
 「考えればいっぱいあるけれど、私がやってるのは発展途上国、つまりネパールやバングラデシュのような国の子ども達の援助だ。私1人ではたいしたこと出来ないから、趣味のハムの仲間に呼びかけて、使用済み切手を毎年300万枚位集めてる。協力してくれてるのは、全国で500人くらいのハム仲間かな。君たちが切手を集めると言っても、年間1人で10枚くらいだろ。だから先生方や病院の職員さん、町の人に声をかければいいんだ。これは、例で、必ずしも切手集めだけでなくていいんだよ。」するとKさんは、
 「いいわ。切手集めでいい。みんなでやってみましょう。」と素直に私の提案を受け入れてくれました。そして、この使用済み切手運動をどう進めるかまで話が弾んだのです。

 Kさんは、生徒会の役員でもあったので早速生徒会としても使用済み切手運動を展開してくれました。校内に切手のポストが置かれポスターも貼られました。ある日の朝の会の事です。Kさんは、
 「切手が、どんどん集まってきたの。看護婦さんとか事務の人とかが持って来て、もうポストは満タンなの。」
 「そうかすごいな。Kさんの力だよ。だけど、使用済み切手は安いから100枚で予防注射1人分だよ。いっぱい集めたいね。」
 「先生、昨日病棟で考えてたんだど、八雲町の人にも協力をしてもらえないかしら。」
 「出来るよ。ビラとか作れば、先生方が、町の住宅街を回って郵便受けに入れて歩くよ。」こんな会話の翌日、もうKさんは手書きのビラの原稿を作って来ていました。
 「先生、これを印刷して、配達してくれませんか。」
 「早いな、よし、1000枚くらい印刷して、他の先生方にも頼んでビラ配りするよ。」こうして、八雲養護学校の国際理解教育がスタートしていきました。Kさんの力で生徒会の「生活委員会」で本格的に切手集めが展開され始めました。使用済み切手運動を全国的にやっている「JOCS(日本キリスト教海外医療協力会」から切手運動の16mmフイルム借りて、生活委員会主催の映画会も開催されました。この映画では、ネパールやバングラデシュの子ども達の生活も紹介されていました。八雲養護学校の使用済み切手運動は街に広がり、個人や職場で集めたということで何人もの町内の人が八雲養護学校を訪れるようになりました。

 そのKさんが突然亡くなったのは、11月の学校祭が終わってまもなくの事でした。学校祭でもKさんは、見学に来た保護者や街の人にビラ配りをしていました。そのKさんが、体調が悪いと数日休んだ後、あっけなくこの世を去ったのです。

 しかし、使用済み切手運動は、どんどん広がっていきました。生活委員会では、集まった切手を整理するのに大忙しになりました。ちょうどこのころ八雲町を訪れていたタイ人やネパール人の留学生が八雲養護学校を訪問して、直接開発途上国の人々の生活を聞くことも出来ました。ネパールの学生さんから「ネパールカレーの作り方を学んだりしました。

ネパールカレーの作り方を学ぶ生徒さんと職員 南ア共和国のレイモンさん訪問


  留学生と学校職員との交流

11 職員にも広まった国際理解教育

 昭和  年度の渡島国際理解教育研究会が八雲養護学校で開かれ、この「生活委員会」の活動が授業研究として公開されました。使用済み切手運動を通して、世界の発展途上国の理解と援助を進める重い病気の生徒さん達の活動は、参加された教師の心を打つものだったとの評価でした。このように生徒の国際協力活動の広まりによって、八雲養護学校の教職員の国際理解教育に対する関心が高まりました。当初私1人であった渡島国際理解教育研究会会員は、次第に増え、15名にまでになりました。もともと渡島国際理解教育研究会は、こじんまりした会でしたので、八雲養護学校は最大会員をかかえる学校となりました。


12 パソコン通信が国際交流を変えた

 昭和57年4月、北海道八雲養護学校に赴任した私は、病気から来る筋肉の低下から手足の自由がきかなくなる生徒さんのためにパソコンが大いに利用できるのではないかと考えていました。着任してすぐ当時の8ビットパソコンを学級に持ち込んで見ました。初めは本を見て簡単なゲームや算数のドリルプログラムなどに使っていました。学級の生徒さんは、パソコンを「おもちゃ」と楽しんで使っていました。
 パソコンは高等部の選択教科の「情報」に取り入れられ、私も高等部に移りました。やがて、パソコン通信が普及してきました。私は、病気のために肢体が不自由になり生活空間が限られてくる生徒さんにパソコン通信を使って交流活動が出来ないか模索をしていました。すでに八雲養護学校では、アマチュア無線でパソコン通信をやっていましたが、相手がアマチュア無線家と制約されてしまうのです。このアマチュア無線でパソコン通信をやっていることが何度か新聞に取り上げられ、当時のKDDの目にとまり思わぬ申し出がありました。「KDDの回線を使って、世界の国々とパソコン通信をしてみませんか。」という提案でした。国際交流には願ってもない申し出です。KDDのビーナスPという海外向けデジタル回線を無料で1年間提供頂けるとの事でした。また、イギリスのTTNSというネットにも入れさせてもらえることになりました。私は、学部に応じた通信相手をTTNSの掲示板を使って交流相手を捜してみました。すると数日後には各国からメールが来て、容易に相手校が見つかるではありませんか。この夢のような回線は平成元年3月に入り、1年間の無料使用、その後2年ほど有料で使わせてもらいました。この海外通信のために結果的に全道の300の道立学校のうちで最も早く八雲養護学校に通信専用の回線が引かれたのです。

イギリスとメール交換開始 NHKの取材に対応する六年生

13 イギリスの学校とパソコン通信

 パソコン通信は、高等部がイギリスの高校、中学部が韓国の障害者施設、小学部がイギリスの小学校など数校の学校と行われました。この中で、小学部の交信で困ったのが英語を使わなければならないことです。小学部の6年生担任の佐藤孝二先生とそして相手のイギリスの南部の小学校ラップフォード小学校と相談の結果、毎日に気象情報を交換することとしました。これは、生徒さんに初めから天気の単語の晴れ、曇り、雨、雪などの英単語をプリントして渡しておきます。そして、朝の活動で測った気温をすぐパソコン通信でラップフォード小学校に送信するという単純なものでした。実は、この活動には、私や佐藤先生の期待するものは別にあったのです。
 「佐藤先生、とりあえずパソコン通信を日常化させよう。そのうち必ず国際交流に発展するぞ。」
 「日常化は任せて下さい。毎日私も手伝いながら継続しますから。」担任の佐藤先生と期待した、国際交流は、すぐやってきたのです。約20回ほどの気象交換の後に、手紙が付いてきたのです。
 「私は、ラップフォード小学校の○○です。私は、毎日八雲養護学校の気象のメールを待っています。」短いメールでしたが、私と佐藤先生が期待していたメールが届きました。
 「先生、私たちもメールを送りたいんですが。」
 「そうか、中学部の英語の先生にみんなの手紙を英語にしてもらえばいいだろう。」こうして、毎日の気象観測のデーターの後に短いメールの交信がはじまりました。
 「今度学校や僕たちの写真を送ります。」ラップフォード小学校の生徒さんからこんなメールが届いて3〜4日後、、航空便で写真が届きました。6年生の生徒さん達は大喜びで、私たちも写真を送りたいとの話になりました。今のインターネット環境があればこの交流はどんなに楽しいものになったでしょうか。この交流は、KDDの無料期間の1年間継続することが出来ました。平成元年度の240日の授業日のうち実に200日以上気象データーとメールの交換が行われたのです。交信できなかったのは、学校際や運動会など大きな行事のため朝の学級活動がなっかったために数日出来ませんでした。もう一つは、KDDがビースPという衛星を使っていたのですが湾岸戦争が始まった日から約15日間、この衛星回線を使えなくなったのです。世界規模で情報管制が行われたのでしょうか。

 パソコン通信の詳細は、「情報教育」で紹介することにしましょう。

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