JA8YIM太田小中学校アマチュア無線クラブの思い出


1 太田小中学校への赴任 

 昭和42年3月、4人の仲間と卒業旅行を楽しんだ私に一通の手紙が舞い込みました。北海道教育委員会からの就職先の通知でした。「大成町立太田小学校」とペンで奉職先が書かれていましたが、まず大成町が北海道のどこにあるのか見当もつかなかったのです。早速毎日のように入り浸っていたロ−カルのJA8CUH佐藤OMに「大成町」の事を尋ねてみました。佐藤OMは、土木現業所に勤めておられ、道南の地理にはめっぽう強い方であることを知っていたからです。
「エッ、太田!」
 佐藤OMは、目をまるくしておどろいていました。そして、すぐに気の毒そうに口を開きました。
「原さん、太田はね、電気も道路もない陸の孤島とよばれているんだよ。」
 そういえば、就職試験の面接で、試験官が任地の希望を尋ねたとき、
「離島、僻地をお願いします。」
と答えたことを思い出しました。なぜそんな答えをしたかと言うと、父が僻地の教員をしていて、1学年が10人以下というような小さな学校で勉強したため、途中で転校した1学年500人もいる学校に嫌悪感さえ感じていたからでした。
佐藤OMはとても太田のことについて詳しかったのは、お兄さんが数年前まで太田小中学校に勤務されていて、いろいろな苦労話を聞いていたとの事でした。
「え! 電気がないんですか?」
私の頭の中は真っ白になりました。電気がない、つまり無線が出来ないということです。佐藤さんのお兄さんが船で赴任したこと、山の中の踏みつけ道20kmを歩いて隣の町まで食料を買い出しに行くことなど、大変な苦労をしていた事などを伺った私は、
「これは大変なことになった!」
と思いました。
 次の日、太田小中学校へ電話をかけてみることとしました。その電話は、ダイヤルでは繋がらず、交換手接続で、公衆電話から申し込んで10分ほど待たされました。すると太田小中学校の校長先生が出られ、
「私も、今回の異動で他の学校へ転勤です。太田は良いところだから楽しみにして来てください。みんな待っていますよ。」
と優しく応対して下さいました。私は、
「電気はあるんすか?、赴任は船ですか?」と二点の質問をしました。するとその校長先生は、
「最近電気と道路がつきましたね。心配しなくていいですよ。」
「電気があるんですか!」 
もうこれで私の心配はなくなりました。「無線が出来るぞ!−−−−」私は小躍りしたものでした。
 小さなアパートの荷物をまとめ、昭和42年4月1日、私の荷物を積んだ3輪トッラクの後ろをバイクで追いかけていました。初めて入った檜山の沿岸は、日本海が目にしみるように碧く海面はきらきらと輝いていました。日本海沿いの道は殆ど舗装されておらず、道路は激しく凹凸があり、3時間の悪路は私のバイクのチェーンをのばし、2回もつめなければなりませんでした。
 大成町、そしてこれから私の住む太田まで12kmの道路標識が出てきました。道路は、海岸の岩場を走るようになり、削岩機で岩を削っただけで路面はするどくとがっています。湾の向こうに小さな集落がみえてきました。その集落を通り抜け、山道を少し行くと急な山の斜面のクリーム色の校舎がみえてきました。
「こりゃ最悪のロケーションだ!」
3方から山がせまり、僅かにぬけた西側には奥尻島がかすんでいました。


2 JA8ATG開局

太田小中学校は、児童生徒70人、教師は校長先生を含めて5人、私が勉強した小学校時代と同じ程度の規模の小さな学校です。それでも仕事は組織化され、分業になっています。私は、新卒で着任早々「保健体育部長」が割当たりました。「部長」と言っても部員は私一人で職員会議の提案から運動会の準備などすべて企画をまかされました。大きな学校では考えられないことですが、実はこの「すべて任される」ということを若い時代に経験したことが素晴らしいことだったと思います。
 また、上司であった故野口哲平校長(後にJA8IZV開局)はじめ、同僚の4人の先生方の暖かな指導をいただいたことが、後々私の教員生活に大きな影響を与えました。特に野口校長は、実践化タイプの校長で、私たち職員といっしょになって活動して下さったのです。
 保健体育部長の最大の行事である「運動会」を6月に終わって、やっと一息ついた私にしばらく休んでいた「アマチュア無線」の再開の思いが頭をもたげてきました。9月には結婚を予定していた私には、資金がない状態でしたが、思い切って新発売のTORIOのTS−500Xを購入しました。支払いのあては殆どは、冬のボ−ナスです。
 アンテナは、公宅の裏山にあげることとしましたが、なにせ三方が高い山に囲まれているのでロケ−ションは、良いとは言えません。中学生の何人かに手伝ってもらって、7Mhzのダイポ−ルが上がりました。同軸ケーブルは、幸い古い木造住宅のためどこからでも穴をあけてどこからでも引き込めます。
 やっとTS−500Xが届いて7Mhzで電波を出すと、同じ檜山支庁の瀬棚町のJA8BQE杉村OM、江差町のJA8UG梅津OMなど檜山管内にも数局のアマチュア局がおられることが分かりました。そんな時に函館のJA8CUH佐藤OMが業務用の50Mhz帯の無線機を持ってきて下さいました。早速アマチュア周波数帯に改造し、1台は自宅に、もう1台は職員室に置きました。
 8月のある日、職員室の50Mhz機をつけっぱなしにしておいたところ、51.00Mhzに無数の全国のハムの声が入っているではありませんか。三方山に囲まれた太田にEスポの電波は強力に入っているではありませんか。アンテナは、1/4のGPです。
 それでは最新のモ−ビルを始めようと井上電機のFDAM−1を車に付け走り回りました。殆どの局はタクシー機の改造で、51.00Mhzの水晶のみで、呼出周波数で長々とQSOできるのんびりした時代でした。
 職員室に無線機を置いていたことで、生徒さんの中にアマチュア無線に興味を持ってくれ、「どうしたら免許が取れるの?」という質問も出るようになっていました。実は、生徒さんの家は殆ど漁師さんで、船には必ず無線が付いていて、無線は珍しいものではなっかったのです。お父さん達も殆ど特殊無線技士の資格を持っておられ、村の何かの集まりで、
「先生の無線どこまで飛ぶんだ?」などと話題になっていました。
「国内は、どこでも飛びますよ」と答えると、
「先生うそして、そんなに飛ぶわけないべや!」と酒の肴にされていました。その内に壊れたラジオ、無線機、テレビなどが持ち込まれ、修理に追われるようになりました。大変なのが、暮れに入ってからです。紅白歌合戦観戦のために、1日に何軒ものTV修理が舞い込むのです。大晦日はそれは大変です。ゆっくり私もTVをみていることも出来ないほどです。おかげで家電製品全般(なんでも)修理ができるようになりました。一番驚いたのは、いかつりの船の発電機が調子が悪いからみてくれと呼ばれ、とりあえずテスタ−と工具を持って漁港まで行ってみると、故障しているのは50Kwの集魚灯用の発電器でした。船底に案内されると、エンジンとつながる大きなプーリーとベルトがブンブン回っているではありませんか。
「こんなおっかないもの分かりません。」と言っても、とにかく漁に出られないのでなんとかしてくれと言うのです。やむなく故障の状況を聞くと、電流計が振り切れて配線がショートしているらしという事です。こんなお化けみたいな発電機みたこともないし困っていると、昔、送信機を作っているとき電流計が振り切ったトラブルのことを思い出しました。
「これは、配線のショ−トでなく、電流計のシャント抵抗(分流器)の断線でしょう。」と、電流計にパラレルに入っているタンクコイルのような太い分流器にテスターを当てると案の定抵抗が無限大です。そのシャント抵抗が何オ−ム(そんなにないか、0.何オ−ムでしょうか)かわからず、とりあえず、その辺に落ちていた銅線をつなぎました。すると、電気がついて電流計も少しふるようになりました。
「直りました! 沖へ出てまた切れたらこのもっと太い線をつないで下さい」 なんと無責任な修理でしょうか。
  生徒さんの要望もあり、電話級アマチュア無線技士の講習会の開き方をJARLの北海道地方事務局に尋ねると、講師は2アマ以上の資格があれば良いとのことでした。勉強嫌いの私もやむなく2アマの免許に挑戦することとなりました。


3 太田小中学校アマチュア無線クラブ開局

  昭和44年12月幸い1回の挑戦で2アマの免許取得出来ました。自作派の私には、電信電話級でなんの不自由も感じていなかったのですが、講師資格を得るため2アマに挑戦出来たのは、太田小中学校に勤めたお陰です。欲を言えば、このとき「講師資格は1アマです」と言われれば、1アマになっていたはずです。いつも最低で過ごしてきた悪癖が今も1アマになれない訳です。いいわけです。hi
 講師は2名必要とのことで、無理をお願いして同じ檜山管内の厚沢部町で小学校の校長をされて1アマであったJA8ASC寺田先生に依頼しました。当時の養成課程講習会は、法規20時間、工学20時間、合計40時間というとても長いもので、講師も受講生もそれは大変なものでした。太田小中学校の生徒さん、何人かの父兄、それに野口校長先生他太田小中学校の職員が受けてくれたのです。
 講習会は昭和45年の春休みに太田小中学校で行われました。そして、太田小中学校の生徒さん小学校4年生以上のほとんど26人が資格を取得することが出来たのです。
 さて、生徒さんが資格を取り、クラブ局の申請、教育課程に位置づけるため、クラブの発足など準備をすすめましたが、肝心のアンテナもリグもありません。野口校長先生も教育委員会に働きかけるなど予算獲得に努力をして下さいましたが、思うように予算が付きませんでした。そんな事を聞きつけた北海道のOMさん方から真空管や部品の寄付がたくさん届きました。私もあまりあてにしていたわけでもなかったのですが、トリオ、八重洲無線、日新電機、井上電機などに手紙を出し機材の寄付を申し込んでみました。メーカーに手紙を出したのを忘れた頃の2、3ヶ月後にTS−510X、FR−50B、パナスカイ、FDAM−3などのリグが次々と届き始めたのです。本当にありがたい事でした。はじめはOMさんからいただいた部品で計画したリグを急遽最新のリグで開局することになりました。コールサインJA8YFIの免許もおりました。
 しかしクラブ活動の時間は1週2時間だけです。とても26人が運用できません。そこで毎日の昼休みに輪番制で7Mhzに出ることになりました。ところが盛んにCQを出してもさっぱり呼んでもらえません。野口校長先生と相談の結果一計を投入する事となりました。
 それは、YIMの10人のオペレーターと交信すると、「YIM指導者賞」なるアワードを発行することとし、達成した方には賞状と盾を届けることにしたのです。この作戦は見事にあたり、昼休みに生徒さんがCQを出すと大パイルが発生する事態になってしまいました。10人とQSOいただいた方には、お空で表彰式を開きました。野口校長先生がマイクの前で表彰状を読み上げるというものでした。この表彰制度で生徒さんは次々と呼ばれ、オペレート技術はどんどん上がっていたのです。
 そして思わぬ副産物がありました。賞状や盾を小包で送ると、お礼にといろいろな生徒さんへのプレゼントが届いたのです。ある時は、名物のリンゴであったり、お総菜を作っているという方からは、「煮豆」が届き、全校の生徒さんと給食にいただきました。本当に楽しいハムの皆様との交流であったと思います。
 ある時、東京に出張する機会がありました。この機会にお世話になった無線機メーカ−さん各社、CQ誌編集部に挨拶に寄りました。トリオでは、JA1CB野村さんが対応になりましたが、最近他界れたと聞いて本当に残念です。現JARLの副会長のJA1AYO丹羽さんがCQ誌の編集長さんで、こんなに若い方が編集長さんかと驚いたものでした。

           

               
お世話なった故野口哲平校長(JA8IZV)                メンバ−26人




              
   東日本海fフェリ−提供のQSL                   10EL八木                    JA8YIMシャック


            



関連報道記事   1970/06/05  北海道新聞
            1970/12/    CQ ham Radio
            1970/11/1   センタ−ニュ−ス          
            1971/01/06  北海道新聞
            1971/07/03  読売新聞
            1971/11/    読売新聞
            1971/11/25  道教委だより
            1972/01/06   読売新聞


4 JA8YIMの144Mhzの電波の伝搬研究が全日本学生科学賞に入選

 どちらかというと製作派の私が顧問のJA8YIM太田小中学校アマチュア無線クラブは、交信活動に加えて電波の飛び方など科学教育に力をいれていました。それで、当時やっと利用が活発になってきた144Mhz帯の伝搬について研究することになりました。西側(日本海側)しか開けていない太田地区で、144でQSOできるのは、せいぜい日本海にそった7エリアか飛んでも9エリアくらいと私は思っていましたが、生徒さん達がアクテブに出ているうちに、函館、室蘭そして信じられないことに札幌などと繋がるようになりました。その時10ELスタックの向きは、いつも西、つまり奥尻島にむいていました。奥尻反射でつながっていることは間違いないようです。
 それで、この奥尻反射をテ−マにJA8YIMの電波は渡島半島にどのように飛んでいるのか、特に奥尻反射の状況を詳しく調べる事にしました。昭和46年の夏休みに生徒さんと八木アンテナを持って渡島半島を回って、いったいJA8YIMの電波はどう飛んでいるのか調査したのです。私たち移動班は、テントを持って楽しくキャンプがてらのです。校長先生には、学校から144Mhzで電波を出してもらい、私たちは八木アンテナを振り回して、飛んでくる方向や信号強度を地図にプロットするのです。
「校長先生、5分間電波を出し続け下さい。どうぞ」
「はい、5分間ね」といった案配です。
 松前町の江良という町の砂浜でキャンプをした時の事でした。朝早くアンテナ振り回して生徒さん達と測定をしていると、お巡りさんがバイクで駆けつけてきました。
「あんたらなにしてるんだ。スパイか?」そうです、誰かがアンテナを振り回している私たちを日本海によく上陸する、某国のスパイと間違って警察に通報したのです。
 夏休みいっぱい生徒さんと渡島半島を回ってJA8YFIの電波を追いかけて回りました。指導していると言っても、私も電波工学など2アマ受験のためにほんの初歩的なことを学んだだけででしたから、何度も函館放送局に出かけプロに教えていただきました。江差のNTTに勤めておられていたJA8ESW車田OMさんのところにも伺いご指導いただきました。それを最もらしく生徒さんに教えるという全くのインスタント教師であった訳です。
 「研究班」の生徒さんの手でまとめられたレポートを読売新聞社の主催する「全日本学生科学賞」に送ったところ、なんと北海道知事賞だというのですから驚きました。他の入賞校は、有名な高等学校ばかりで、これには夏休み中伝搬研究の相手をさせられた野口校長先生も驚いたようです。
 この研究は東京に送られ全国審査になりましたが、さすがに初参加、三等賞に留まりました。東京での表彰式の案内もいただきましたが、旅費は参加者負担でこれは参加を諦めました。
 これは後日談ですが、私がバンコク日本人学校に派遣された後にJA8YIMの活動が認められ、太田小中学校が「科学技術長官賞」に輝いたとのことでした。また、これは大変申し訳ないことになったのですが、私と野口校長が出た後に、このクラブ局の指導のために講習会の講師をしてくださったJA8ASC寺田校長先生が赴任されたのです。太田小中学校は、僻地の小規模校で、寺田先生のようなベテランの校長先生が来られるような学校ではありませんでした。寺田先生には大変申し訳ないことをしたことになります。寺田校長先生は、ますます無線クラブを発展させ、昭和49年の1月にNHKの東京のスタジオに招待され、生徒さん数人を連れ出演し、無線クラブの活動を紹介されたとのことでした。
 私ども教員にとって、前任者がやっていたことを継続することはたいへんなことです。盛んであったクラブ活動が、担当の教師が異動するとツブレタという話しはよく聞きます。継続するだけでなく一層発展された寺田校長先生のご努力に敬意を表するところです。ありがとうございました。


関係報道記事 1971/11     読売新聞
          1972/01/06  読売新聞


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